王 英(おう えい)は、中華民国の軍人。国民軍、奉天派などに属し、後に日本側に転じて大漢義軍を率いた。号は杰臣

事績

初期の活動

18歳で北京匯文中学を卒業する。1920年(民国9年)から綏遠都統馬福祥の下で、都統署参議や騎兵営営長などをつとめた。1925年(民国14年)、馮玉祥のもとで、五原・臨河騎兵団団長に任命される。同年秋には、包寧護路司令兼綏遠省革命協会会長に任命された。民国15年(1926年)からは奉天派に転じ、万福麟から東北第31軍軍長に任命された。まもなく、今度は閻錫山の下に移り、山西騎兵第4師師長となる。1930年(民国19年)、中原大戦が勃発すると、さらに蔣介石側へ寝返り、騎兵第3師師長に任命された。

1931年(民国20年)、満州事変が勃発すると、王英は蔣介石から察北義勇軍司令に任命される。1933年(民国22年)夏、馮玉祥が張家口で察哈爾民衆抗日同盟軍を組織すると、王英は馮の配下となり、遊撃第1路司令(察北遊撃司令)に任じられた。同盟軍解体後の同年冬、王英は蘭州へ移り、甘粛省政府参議に任命された。

大漢義軍を率いて

1935年(民国24年)、王英は日本に投降し、梅津美治郎から大漢義軍司令に任命された。翌年11月、王英は、デムチュクドンロブ(徳王)・李守信率いる蒙古軍とともに綏遠を攻撃した。しかし、綏遠省政府主席・傅作義らの反撃の前に敗れた(綏遠事件)。1937年(民国26年)、綏西自治委員会委員長となる。1939年(民国28年)11月、綏西自治聯軍総司令に就任した。形式上、王英はデムチュクドンロブ配下であったが、実際には日本軍の命令を直接受けたとされる。その後、傅作義と戦いを繰り広げたが、総じて劣勢であった。

日本敗北後は、軍を率いて傅作義に投降し、騎兵第1集団軍総司令に任命された。さらに第12戦区騎兵第14縦隊縦隊長に異動している。1946年(民国35年)秋、北平で国民政府軍事委員会委員長北平行営高級参謀に任命された。その後、平蒲路剿共軍総司令にも任じられている。

中華人民共和国成立後に王英は当局に逮捕された。1950年5月23日、王英は漢奸・反革命の罪により北京市人民法院で死刑判決を受け、上告したものの最高人民法院でも原判決が維持された。同年11月4日、北京市で王英の銃殺刑が執行された。享年56。

脚注

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 
  • 李泰棻「王英罪悪史」中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会 編『文史資料選輯 第15輯』中国文史出版社、1961年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 

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