安藤 信勇(あんどう のぶたけ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国(後の磐城国)磐城平藩7代(最後)の藩主。官位は従五位下・対馬守。対馬守系安藤家12代。維新後知藩事。
生涯
嘉永2年(1849年)10月10日、信濃国岩村田藩主・内藤正縄の嫡男・内藤正義の三男として誕生した。文久3年(1863年)に従弟の磐城平藩6代藩主・安藤信民が夭折した際、母が4代藩主・安藤信由の娘であったことから、隠居の伯父安藤信正によって7代藩主として迎えられ、同年10月2日に家督を継いだ。しかし若年のため、藩政の実権は信正が掌握していた。なお、岩村田藩主を継いだ兄・内藤正誠は、信正の娘(従姉妹に当たる)を正室としている。また、正誠の婿養子の内藤正慇は、先妻の死後に信勇の娘と再婚した。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、在国していた信正は佐幕派として新政府と敵対したが、信勇は3月に上京し、4月には従五位下、対馬守に叙任され、5月には新政府に恭順することを誓っている。明治元年(1868年)12月7日、信正が新政府と敵対したことから、信勇は謹慎を命じられた。また、陸中国磐井郡3万4千石への移封も命じられた。それに対し、信勇は新政府に旧領復帰を働きかけた。
明治2年(1869年)8月3日、7万両の献金と引き換えに信勇は旧領に復帰し、8月19日には版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で免官された。同年8月10日、東京に移住した。明治5年(1872年)5月18日、隠居し、養子の信守(信民の没後に生まれた弟)に家督を譲った。その後、学習院教授となったが、晩年は磐城平に戻って明治41年(1908年)5月24日に死去した。享年60。
系譜
父母
- 内藤正義(実父)
- 力子 - 安藤信由の次女(実母)
正室
- 登女子 - 三浦万邦の娘
子女
- れん - 内藤正慇の後妻
養子
- 安藤信守 - 安藤信正の子
系図




