久我 俊子(こが としこ、生年未詳 - 慶安3年11月14日(1651年1月5日))は、江戸時代前期の公家女官。久我通堅の娘。岡とも称した。はじめ六条有広室。離縁後、東福門院女房となり、新大納言局と称した。

経歴

六条有広と結婚し、有清をもうけた。しかし有清は侍従従五位下で夭折した。このため俊子は、父久我通堅の弟である岩倉具堯の子、有能を養子として六条家を継がせようとした。しかし有広は家女房との間の子である有純を継嗣とし、俊子は有広と離別した。その後、俊子は東福門院のもとに仕え、新大納言局と称した。俊子は東福門院へ願い出て、有能を久我通前の養子とし、新家千種家を創立するよう計らった。東福門院のもとを辞去したのち、上雲院と号し、黒谷金戒光明寺に一院(上雲院)を建立した。慶安3年(1650年)11月14日薨去、金戒光明寺に葬られた。

参考文献

  • 橋本政宣 編『公家事典』、吉川弘文館、2010年。

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